四十九日
私を育ててくれた、ばあちゃんが亡くなって49日。
まだ心が折れたままだ。まだ引きずっている。
言いようのない感情が湧き出ては消える。
たぶん、廻りにはそんなこと思ってもいないんだろうと見られているかもしれない。意外と元気なんじゃないか?と。
遺影と骨壺を目の前に、どうしても思い出す。ばあちゃんに迷惑かけたこと、ケンカしたこと、沢山話したこと。
小学生の頃、友達の家で二段ベッドの上から、顔から落ちて大量の鼻血が出ていたときに、迎えに来てくれた。背中におぶさって帰った。
毎週土曜日になるといつも、実家で母方のばあちゃんとお茶飲みながら、楽しそうに話していたこと。
「野球の練習に行きたくない!」とふてくされた私の相手するのめんどくさかったんじゃないかな。
でもばあちゃん、私が野球を始めてから、野球のルールとか分からないけどテレビで見るようになったよ、と言ってくれたこと嬉しかった。
私が大人になっても、同じこと言ってたな。
千葉マリンで野球観てきた帰りに実家に立ち寄った時なんかもそうだったし、たまに夕飯食べに帰ったときに、私が半ば強引にケーブルTVで千葉ロッテ戦を見ながらご飯食べてるときもそうだった。
「ばあちゃん、見ててわかるの?」と聞いても
「わかんなくても、楽しいよ」と言う。
とにかく話がしたかったんだろうなあ。
私が一人暮らしを始めてから、実家に帰ると、とても嬉しそうに迎えてくれた。ほんの一瞬だけ立ち寄ってすぐ帰る時でもそうだった。
わざわざ動かしにくい体を揺り起こしてまで、玄関まで出てこようとする。「大変なんだからいいよ。無理すんなよ。」って言っても聞きやしない。頑固なんだか、いつものクセなのかわからないけどいつもいつも、玄関まで迎えにきたり、送ってもらったり。
そんな些細なことが、私の記憶の中に沢山ある。
私がまだ、精神的に幼く、辛く当たったり冷たくあしらったりしたこともあった。
実家を出た私が、客観的に家の中を見ることが出来るようになってから、ばあちゃんの置かれた立場に気づいてしまった。
肩身の狭い思いをして、色々な人に辛く当たられ、やっかまれ、めんどくさがられ、それでも私は、ばあちゃんが大好きだった。
私が大きくなっても、ばあちゃんは、ばあちゃんだった。
入退院を繰り返し、余命を宣告された時も、多少は覚悟していたがまだ実感が湧かなかった。また帰ってくるよ、と考えるしか、
というか、冷静を装うことしかできなかった。
私の自宅ベランダから見える病院。
すぐ近くでいつでも行けるという、根拠のない安心感。
そんなもの、最初から考えてはいけなかったものだったはずなのに、どこかで見て見ぬふりをしていたのかもしれない。
「大丈夫だよ。ばあちゃん実家に帰ってくるよ。」
そう思うしかなかった。
危篤の知らせを受けて、病院に向かったが実はそこの記憶があまりない。
私はショックが大きすぎると、意外と外面には現れてないのか、努めて冷静を装うふりをしていたのかな。
ばあちゃんの最期をみとったのは、妹だった。
両親や伯父伯母が一度立ち寄りに家へ帰ったときのことだったらしい。
妹とその末娘だけしか残っていなかった。切羽詰まった連絡を受けて、急いで向かったけど、私達がついた時には既に医師による死亡確認がされた直後。ほんの5分前のことだ。
あんなに近くに住んでいたのに。
あんなに近くから思い続けていたのに。
せめて、最期をみとりたかった。それすらできなかった。
私は、ばあちゃんにとって、どんな孫だったんだろう。
扱いにくい性格で困らせたと思う。わがままで暴君だったと思う。
でも、私は、ばあちゃんがとても大事だった。大切だった。
ひ孫まで見せてあげられたことが、唯一の恩返しだったのかな。
ばあちゃん、ありがとう。
なんだかいまだに頭の中でまとめきれない。
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Comments
- PostedAugust 11, 2007 11:25 AM
- Autherkomacchi
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